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丹沢ジャーナル

NPO法人丹沢自然保護協会「丹沢だより」第6号(1969年3月)掲載
活きている博物教室 丹沢
故 中村芳男 当時 丹沢自然保護協会会長
<解説>
丹沢自然保護協会は1960年(昭和35年)に設立された自然保護団体です。現在発行する会報、「丹沢だより」は1968年(昭和43年)に第1号が発行され、6号までは、わら半紙にガリ版印刷です。その後紙質が良くなりましたが1970年の第10号までは手描きの原稿で作られています。中村芳男氏は同会の、(現)中村理事長の父上であり、1990年(平成2年)に逝去されるまで「自然が自然であるという当たり前のことが、人が生きていくために、特に子供たちにとって大切なものだ」という信念を持ち続け、自然保護に尽力された方です。


初期の「丹沢だより」はわら半紙にガリ版印刷。
当時の丹沢の様子と活動を伝える貴重な資料となっています。

 今年は暖いせいかまだ猪が出て来ないが、このところ、毎月一回の割で、夕刻になると、諸戸と札掛の中間あたりの県道を、ツキノワグマが横切る。山に住んでいると、
「熊なんてこわくないよ。」
というけれど、集団か、車に乗っているか、しているので、そう言えるのかも知れない。一度、一対一で会って見たい、とも思う。
だが、アメリカの自然公園あたりへ行くと、「クマ公」が停車する車の窓をのぞいて、人間を見物しているような姿を見かける。公園の入り口には、「窓を開けるな。」と書いてあるそうだ。
わが丹沢では、まだそこまでは行っていないが、札掛まで来るマイクロバスの運転士君が、「あそこに鹿がいる。窓をあけると逃げるから、そのまゝ、車の中で見て下さい。」と言うそうだ。
この車の中では、その気になれば、シカは勿論、カモシカも、オシドリも、ヤマバトも、ウサギも、コジュケイもという風にいろんなものが見られる。
私共の周辺で見れるものはその他枚挙できないほどだ。
山麓の村々では、鹿に困り切っているようだが、これらには、三十九年以来我々の提言して来た方法がある。四十五年には鹿猟は解禁になるはずだが、それまでに大自然の博物学教室とも言えるこの動物植物の宝庫についての一つの施策の確立が絶対望ましい。さもないとここ十数年の施政で守られ、且つ増殖されたあらゆる動物資源が絶滅されるのではないかと危ぶまれる。絶対に、しかも永久に禁猟であるはずのカモシカなどがいまでも撃たれている事実を見てもあきらかにいえる。
丹沢山塊は二千五百万年前は海であったという。見上博士や、京大の吉川氏などが、札掛の周辺でホタテ貝や、ヒトデの化石を採取しておられる。
亭々と生い茂るモミやブナの自生林は、二百年から三、四百年を超えるものだという。
その樹間に這う霧の中に咲く可憐なトリカブトには目をみはり、しばしたたずませずにはおかぬものがある。これを見、あれを見れば、丹沢が活きている博物教室そのものであることが誰にもわかる。これを守る ― 大切な仕事である。
  


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