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丹沢ジャーナル

2004年6月「丹沢再生への挑戦4」神奈川新聞掲載
将来像をどう描くか
長縄 今日子  丹沢自然史研究会(当時)
 私と丹沢とのかかわりは獣道歩きから始まった。学生時代にツキノワグマに惹(ひ)かれ、ふんから食性を探る、ということを研究テーマにしていたためだった。
1990年代当初、山ろくはもちろん、蛭ヶ岳直下にもスズタケが密生するやぶが存在し、クマふん探しはやぶこぎが常だった。急峻(きゅうしゅん)な沢筋でスズタケにしがみつくようにしてたどり着いたクマの越冬穴周辺には、スズタケを数十本ずつよじったクマのクッションともいうべき「クマ結び」をいくつも見つけることができた。しかし、そうした状況は、数年のうちに一変した。
密生していたスズタケの多くは、稈(かん)のみを残し、手でかき分けるとパキパキと折れる状態となり、葉が矮小(わいしょう)化したいわゆるテングス病のものや開花したものをよく見かけるようになった。スズタケが消えた場所では表土の流出が著しく、次第に地面に大きな亀裂が走り、土壌がみるみる押し流されていった。このままでは、山が崩れ去ってしまうのではないかという危機感を覚えた。
その後、丹沢の山すそで暮らす地元の方から話を聞く機会が増えた。一昔前の丹沢は、今の丹沢の姿からは想像もつかないほど豊かなものだった。「大人でも何抱えもあるようなケヤキやモミのこんな大きいのがずらっと並んでえたよ」「川ん中入りゃあ、魚がいっぱい擦り抜けてって、くすぐったいようだったよ」
林床にスズタケが生い茂る原生林が広がっていた丹沢。東丹沢の中津川や相模川の水量は現在の倍以上。今は湖底となった宮ヶ瀬付近でも天然アユの遡上(そじょう)が見られ、子供も手づかみでアユを捕まえることができるほどだったという。地域ごとにさまざまな草木の利用も見られたようだ。津久井などでは年貢の替わりに納められていたという相模漆や炭。宮ヶ瀬では、シナノキの皮を「シナッカワ」といってロープに。山北では、一年目のスズタケを抜き切りし、行李(こうり)の材料として小田原へ出荷していたそうだ。けれど、明治末期からパルプの生産が盛んになり、西日本で資源が枯渇し始めた大正には、丹沢でも奥の沢々からブナなどの木材を川流しで搬出。当時の伐採の状況を聞くとその直後に起こった関東大震災の崩壊は人災では…と思えるほどだ。また、明治から昭和初期にかけては、シカが山ろくから姿を消していたという。開拓の影響だろうか。シカを見たのは札掛の鳥獣飼育所が初めてという人や、山北町の古老によると、遠く伊豆や山梨の塩山にシカ猟に出かける人もあったとか。その後の拡大造林による草地の増加、保護政策によってシカが丹沢山地のいたるところに生息するようになったようだ。
時代ごとの人々の自然資源の利用が丹沢にも反映されてきたように思う。では、丹沢山地の理想像とはどのようなものなのだろうか。私たちは、ともすれば目の前の自然の姿だけでその状況を判断しがちである。暮らしの中で丹沢とかかわり続けてきた地域の人に、自然をあるときは抑え、あるときは生かす、自然とのかかわりの術を学び、山の歴史の中からも将来のわたしたちが自然とかかわるあるべき姿を探っていきたいものである。

スズタケ茂るブナ林

表土流出


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