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丹沢ジャーナル

2010年3月 雑誌「森林レクリェーション」
丹沢の自然とその再生(1)
木平 勇吉   東京農工大学名誉教授  丹沢大山自然再生委員会委員長
<解説>
社団法人全国森林レクリェーション協会が発行する「森林レクリェーション」誌とは森林インストラクターや環境教育専門家や森林ボランティアを読者とする全国的な月刊雑誌です。ここはインストラクター試験や子ども樹木博士活動をやっている機関です。また、スキーで有名な三浦雄一郎さんが理事長を勤めておられます。丹沢の状況と自然再生委員会の活動の紹介記事執筆を依頼されたので、そこでの課題について私の主観をまじえて述べました。前半の3月号では全体像と生態系の破壊を説明し、後半の4月号では間伐や保育などについて技術的な課題を述べました。この課題は今後の関係者の話し合いで解決されるべき宿題です。

 神奈川県の丹沢山地では、森林生態系が撹乱し自然破壊が進んでいる。このため、官民協働組織「丹沢大山自然再生委員会」が2006年に設立され、丹沢山地の自然再生への取組が行われている。本号と次号で、市民協働による自然再生の神奈川モデルとも言える丹沢山地の自然再生の取組について、丹沢大山自然再生委員会委員長の木平勇吉氏に紹介していただく。(編集部)
富士山を望む初夏の丹沢
鮮やかなツツジが群生して、紅(トウゴクミツバツツジ)と白(シロヤシオ)が若葉の緑に映えます。汗を流して登ってきただけの価値がある景観です。山はまだ静かですが登山者には見過ごせない季節です。
 丹沢は首都圏を代表する森林レクリエ−ション地域です。東京や横浜から1時間余りで到達できますが、その特徴は隣接する箱根とは対照的で、森林の楽しさと美しさを直接に体で触れることが出来る世界です。箱根は華やかで都会の雰囲気が溢れるリゾート地であるのに対し、丹沢は静寂な空気に充ちている原生的な森林地帯です。箱根は豪華なホテル、別荘、ゴルフ場が連なり、食事やドライブが魅力となる「ハイヒールの世界」ですが、丹沢は静かで質素な山里を辿り、野鳥とシカが棲む森をかき分け、険しい登山道に汗を流し、渓流を逆上る「登山靴の世界」です。野生動物や季節ごとの樹木や野草の花に出会える世界です。この魅力ある森林レクレーシヨン地域としての丹沢の自然を、まず紹介します。つぎに、いま、この丹沢で起こっている「生態系の異変」と呼ばれる自然環境の破壊を説明します。そして、それを再生するための官民協働の活動とその中核組織である「丹沢大山自然再生委員会」について述べます。丹沢を訪れて下さい。そして、自然再生活動に力を貸して下さい。
東京・横浜に近い丹沢の宿命
丹沢は神奈川県の西部に位置する4万haの大きな山塊で、首都圏から年間30万人の登山者が訪れます。神奈川900万人のための水源域でもあります。豊かな生態系が見られ、生物多様性等を維持する原生的な森林地域として国定公園に指定されて保全されています。
丹沢の自然の魅力
丹沢は東京や横浜から小田急電鉄小田原・箱根行きの電車に乗ると、やがて右側に見えてくる大きな山なみです。厚木、秦野、山北などが主な登山口で、そこから1,600メートル級の峰が連なる奥地の主稜へと登山道がつながっています。どれも急峻な山道でかなりの体力と覚悟がいります。足まわりも服装もしっかりと用意して食料も自身で背負います。登山ルートごとに風景には特徴がありますが、共通する魅力は雑木林、植林地、原生的な森林が累々と続き、季節ごとに姿を変えることです。
丹沢の森林を象徴するブナの天然林
標高800mを超える奥山には冷温帯植生を代表するブナ林が現れます。その幹の肌や枝ぶりの雄大さには登山者を驚かす貫禄があります。春の芽吹きと秋の紅葉の頃は見飽きることがありません。
 まず、初夏には浅緑の樹木の間に遅い山桜と華やかな白と紅のシロヤシオやツツジの咲く風情が印象的です。夏が深まると緑は濃くなり、高く深い奥山に広がるブナ林には静寂で特有のさわやかな山の風が吹きます。 秋は里より早く訪れて、原生的な林では針葉樹と広葉樹が混じる紅葉が始まり渓流に映えます。丹沢の大昔の森の姿を見ることができます。

紅葉が始まる頃の針葉樹・広葉樹の混交天然林
奥地や急峻な地形には人間の手が入らない原生林が広がります。大昔の潜在植生です。さまざまな樹種、高さ、年齢の樹木が混じっています。

ニホンシカの勇姿
昔は平地に棲んでいたシカが都市開発により山地に追いやられました。植林が盛んであった頃は食料となる草が多く、保護政策により数が増え過ぎました。目の前に出てくる野生のシカには感激します。忘れられない登山の思い出になります。
 四季を通してニホンシカとの出会いも丹沢の楽しみです。登山道の近くまで現れるので、自然の中で暮す家族や群れの野生の姿を観察できます。
冬になると登山客はすっかり減りますが、樹木は葉を落として森は明るくなり見通しがよくなります。地面は落葉に埋もれて一面が茶色に変わり、その上を歩く足の感触は心地よいものです。視界が開けた尾根筋からは累々と連なる山並みと相模の海と雪の富士山が見えます。冬の丹沢は想像よりはるかに魅力的です。
登山は秦野市の大倉から塔の岳、丹沢山、蛭ヶ岳、檜洞丸と連なるのが主嶺コースですが、周辺には多くの里山散策ルートがあり静寂な空間が広がります。誰でもが手軽に探鳥や草花観察ができて、都会では味わえない良さがあります。
透き通った豊かな水が湧き出る渓流
森林に降った雨の多くは、一旦は土壌中に蓄えられてゆっくりと渓流にながれ出ます。洪水時も渇水時も同じように清らかな豊かな水が湧き出るので水源林となります。
「丹沢」の名前のとおり渓流は深く急で、水が豊かで川魚も水生動物も豊かです。そこでは渓流釣りを楽しむ人々で賑っています。山からの渓流水は「丹沢の水」となり、特上の飲料水となっています。リゾート施設はありませんが、大山神社の参道には昔の「大山講」の雰囲気が残り、丹沢湖や日向薬師には、ひなびた温泉が散在しており、山の宿の趣きは格別です。このように、季節と場所ごとに静かな本当の自然と伝統的な山里に残る風情を知ることが森林レクリエーション地域としての丹沢の特徴です。

生態系の撹乱と自然破壊
このような原生的な自然が残された丹沢は、森林レクリエーションに最適な場所ですが、いま、「生態系の撹乱」と呼ばれる深刻な自然破壊が進んでいます。その原因には隣接する大都市と地域社会の歴史が深く関わっています。人間による自然破壊の典型といえます。 丹沢を訪れる人の目につくのは、まず、ブナ大木の枯死です。南向きの斜面で谷かぜが吹き付ける尾根筋の大木の衰弱が目立ち、やがて白骨のように立ち枯れる姿は痛々しい限りです。これはオゾンを含む都会からの汚染された大気や、度重なる虫害や土地乾燥化が原因のようです。大気汚染と虫害の発生について観測が続けられていますが、有効な対策はまだ立ちません。大木が枯れた跡には後継樹が育つことが必要ですが、自然に任すか植林するかのテストが行われています。
ブナの枯死
高い濃度のオゾンに曝されたブナはしだいに衰弱します。それにブナハバチが大発生して葉が食べられます。これが毎年繰り返されると枯れていきます。土壌中の水分不足も原因と推察されます。
 次に、登山の途中で出会うスギ、ヒノキ植林地の暗さとその地面からの土壌流出です。草や潅木がなく、露出した地表では土は侵食されて樹木の根が浮き上がっています。無生物の死の世界です。天然林でも根が浮き上がっています。あちこちで表土が侵食された山肌は荒地となり不気味です。
暗いヒノキ植林地での土壌侵食と浮き上がった根
植林されたままで間伐されずに放置されると林内は暗くなり下層植生は消えていきます。裸地では表流水により土が侵食されて、やがて大きな溝となります。根には支持力がなく立木は倒れます。流れた土砂は渓流とダムを埋めて破壊します。
これは植林地での保育作業が放棄されたからです。いま、森林所有者は自分の山の世話も所在場所も忘れています。それにシカの食害が重なり、森林は生存の基盤である土壌を失っているのです。
草も潅木もなく、樹皮を剥ぐ飢えたシカ
数が多くなり過ぎた今日では食料が不足しササや潅木などの下層植生を食べつくします。シカは飢餓地獄に苦しみ、人は獣害に苦しみます。適度な頭数と分散、適度の食料、適切な野生動物管理が求められています。
対策として、シカの食害から植生を守るために設けられたのが植生保護柵(シカ柵)で、森の中のあちこちに作られています。土壌の流出は登山道でもひどく進んでいます。多くの登山者の踏み跡は裸地となり広がるので、対策として木製の階段や土留め杭が作られています。しかし、登山の雰囲気はひどく損なわれています。登山者の増加と低いマナーは登山道の荒廃だけでなく、ゴミの散乱やトイレ問題をひき起こしています。しかし、ボランティアの清掃活動により、かなり改善されています。この他に、目にはつきにくいのですが、自然環境の荒廃としては、水質の悪化、希少種の消滅、外来種の侵入、渓畔域の荒廃などがあります。さらに深刻な問題は、地域社会の衰退です。学校や集落が消滅して廃墟となっています。あるいは人口が減り、暮らしが成り立たなくなっています。これは東京や横浜の急速な発展と人口の過密化とが関わっています。丹沢の今日の自然破壊は、過去100年間の地域社会の変化と人間活動により生じたと言えます。これから丹沢を再生するのは今に生きる私たちの責任です。次号では丹沢自然再生の活動を紹介します(続く)。

溜まった負の遺産
これまでに捨てられたカンは土壌と微生物と水を汚し、醜い景色となっています。今はマナーがかなり良くなっています。

荒れてしまった登山道を修復する階段と土留工事
登山者の踏みつけにより裸地となった登山道に階段をつけて拡大を防ぎます。道の両側には木の杭を打ち植林して土を止めます。しかし、藪に戻るには20年はかかるでしょう。
  


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