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丹沢ジャーナル

2009年4月28日 水源環境税後援会(講演記録)より
丹沢の実態と丹沢大山総合調査(前編)
木平 勇吉   東京農工大学名誉教授  丹沢大山自然再生委員会委員長
 皆さん、こんにちは。私は丹沢の生態系の現状、それから、それに今どう対処しようとしているかという要点をお話しし、問題提起とさせていただきます。私の身分は、東京農工大学名誉教授、これは名ばかりの名誉教授であって何もやっていませんが、丹沢大山自然再生委員会の委員長をやっています。これは行政、企業、マスコミ、研究者、NPOなど県民総がかりでつくられた組織であり、これからの新しい協働的な組織として非常に期待しています。

今、目の前にある森林というものは過去の私たちの地域社会の行動によって決まるものだと思います。そして現在の私たちの営みが未来の森林を造るものだと思います。ということで、森林は歴史の所産であると申し上げます。従って、現在の問題を見るためには、過去、その地域の森林あるいは環境がどのように扱われたか、守られたかという概略を知ることが非常に重要だと思います。丹沢というのは原生林で非常に魅力的な所だと思われる方もおられますが、私は単純に大体1000m以下の所を里山といい、それ以上のことを奥山といいます。もちろん里山の方が圧倒的に人間の営みが入っていて生活に近いわけですが、現在は奥山の方にもいろいろな問題が生じています。今言ったように、森林の姿というのは私たちがどうかかわったかという過去のものの集積なのですが、この神奈川県あるいは丹沢に生えている樹木は大体30年から40年生、皆さんの年齢よりも少し若いくらいのものが多いのです。せいぜい40年から50年、60年のものが主に里山にはあります。従って、その過去を見るのであれば、せいぜい40年から50年、長くても80年、100年を見れば、どうやって現在になってきたかということがよく分かるのではないかと思います。
丹沢ジャーナル図表 丹沢ジャーナル図表
 ということで、まず戦前、といっても一括して1920年以前では、特に丹沢の里山は、圧倒的に薪炭の供給地として使われてきました(図表1)。そこは生活の場であり、日々の炭・薪、それから農業用の肥料の落ち葉の供給地ということで非常に生活に密接にかかわっていたのですが、非常に利用が激しくて森林の内容は乏しく、いわゆるはげ山状態あるいは貧しい森林であったと思います。かつての古い時代の丹沢は図表2のような雑木林で、これが里山の実際の姿です。クリやクヌギ、コナラなどが薪炭として、人間が育てたというもので、一般には非常に細く若いものであったと思われます。
 その後、丹沢には大きな異変が起こります。1923年に関東大震災があり、図表3の写真にあるように全山、特に尾根部から沢にかけて多数の崩壊地が出たということで、今までの森林もかなり貧しい内容であったものが、さらに土砂崩れで壊滅的な状態になりました。そしてそれに続いて太平洋戦争に入って、戦後の山の状態は皆さんが想像するような豊かなものでは全くありませんでした。
 それからだんだん時代が近付き、その中で1950年代に非常に大きなことが起こります。それは災害ではなくて私たちの生活の変化で、燃料革命と呼ばれるものです。それまでの私たちの燃料は薪・炭という時代だったのですが、それが突然に灯油や石油などの化学燃料に変わるということが1950年代後半に起こります。そうすると、雑木林は全く無価値になり、土地所有者はそこで選択を迫られるわけです。そのまま雑木林として無価値のまま放棄するか、あるいはスギ・ヒノキを植えて木材生産の山にするかという選択です。雑木林を放棄するか、ヒノキ・スギの人工林を植栽するか、いずれかを迫られます。 そして造られたのが現在の丹沢の姿の原型です(図表4)。
すなわち、周りは全部かつての薪炭材の雑木林です。その中にある緑色が、スギ・ヒノキの人工林です。これは現在の写真ですから、もう30年40年たっていますが、このような状態ができたわけです。そして1960年代には高度成長が始まり、都市化が始まります。そして人工林が拡大し、林業が盛んな時代が続きます。
しかし、やがて林業が衰え、そして森林への関心がなくなっていきます。それまで地域にあった薪炭林から、災害があり、それから植林がされ、やがてその植林地が放棄されるという歴史の中で、丹沢の生態系にいろいろな面で異変が起こってきました。これは1980年代からじわじわと始まり、現在はそれのピークといいますか、それがいろいろなところで顕在化しています。
丹沢ジャーナル図表 丹沢ジャーナル図表
 情緒的な言葉なのですが、現在の丹沢では「老木は枯れ」、非常に大きな木は枯れています。それからシカがたくさんいて、みんな飢えています。登山道は雑踏していますし、人工林は放置されています。そして集落は非常に寂れています(図表5)。ブナは丹沢を代表する、尾瀬筋にある皆のあこがれる木です。これまで150年以上生きていたものが、この15〜20年ぐらいの間にどんどん衰弱し、あるものは枯れ、そして倒れています。図表6はブナ枯れの姿です。
丹沢ジャーナル図表 丹沢ジャーナル図表
 次はシカの問題です。シカが飢え、と言いましたが、飢えるどころではなく、シカがすごくたくさんおり、それに対する十分な餌がなく、シカにとっては飢餓地獄と言えます(図表7)。図表8は典型的な例ですが、今、山へ行くと下草がありません。ほとんど裸地状態です。その一つの原因は、シカがありとあらゆるものを食べるからです。ありとあらゆると言うと語弊があるのですが、食べない草だけが今残っています。ですから異常な草原が見えます。あれはシカが嫌な植物です。そして一つの対策として、かなり古くからシカが入れないように柵をしています。防シカ柵をしますと、その中の植生は回復し、その外側は相変わらず裸地というようなことが今、実験的・事業的に進められています(図表9)。
 次は雑踏する登山客ということで、これはもう図表10のとおりです。登山が盛んになり、ここで国体が開かれるなどで、30万人以上の方が登られます。そうすることによって歩道がどんどん両側に広がっていき、そこが浸食されていきます。これは見るに見かねてというか、ある程度の柵をして元に戻そうという試みですが、このような感じです。最初は人間たった一人が歩けるだけの歩道が、どんどん脇へ脇へと行きます。また、図表11のような尾根筋があちこちに見られます。
丹沢ジャーナル図表 丹沢ジャーナル図表
 図表12はもうお分かりですね。今は少しはモラルが良くなってきて、あまりこういうことはなくなりましたし、私たちボランティア団体はこの回収をしています。しかし、回収した翌日にも、いくらでも拾うものがあります。
 それからトイレの問題です(図表13)。これは丹沢だけではないのですが、登山客が多くなればそれをどうするかということで、今、少しは改良というか、バイオトイレなどをやっていますが、基本的にはこの問題は解決しません。全部し尿を山から持っていく以外は基本的な解決にはなりません。いくら分解しても窒素はそこに溜まります。
丹沢ジャーナル図表 丹沢ジャーナル図表
 それから次に、一番深刻な問題だと私は思うのですが、人工林の問題です(図表14)。林業が薪炭生産から人工林のスギ・ヒノキ生産に変わって、そのときの土地所有者は木材生産に大きな期待をかけたのです。しかし、林業が盛んであった時代はわずか10年で、やがて林業経営が成り立たなくなり、植えた人工林を全部放棄するというか、もう手を入れない。そして所有者は自分の山がどこにあるか分からないという状態が常態化しています。手を入れない人工林は太陽が差し込みません。そうすると地面は暗く、草が生えません。あるいはもう一つ、先ほど言ったようにシカが草を食べてしまうのです。このように、林内が暗くなることとシカが食べる、この二つのことで林内の表面が裸地になります。そしてそこに雨が降ることによって土が流されます(図表15)。
 土が流されるということは、森林の一番根本が崩されるわけです。木を切るとか、木がなくなるというのは問題ではないのです。木はどんどん次を植えれば更新できるのですが、土がなくなればどうすることもできません。下からもっこで土を上げていただく以外ないのです。これは丹沢の決定的な問題です。これは人工林だけでなく、天然林にも起こっています(図表16)。これはやはりシカの影響が非常に大きいのです。


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